「くわず女房」のこと

2018-06-30 13.39.21.jpg

この民話は、岩手県紫波郡(しわぐん)をはじめとして、
日本全国にたくさん伝わっているお話だそうだ。

あらすじをすこしばかり。


   *

あるところに、ひどくけちな男がいて、
「飯を食わねえ嫁さまがほしいだ」と云う。

数日後、男のところに「私は飯も何にも食べませんから、嫁にしてください」
という女がやってくる。

男はどこの誰とも知らない女なのに、その女と暮らし始める。
その女は、飯を食わないどころか、朝から晩までせっせとよく働くので
男はほくほく顔でよろこぶ。

ところが、おかしなことに、家の中の米や味噌が
みるみるなくなってゆく。

不思議に思って、男はある日、嫁さまに
「町へ行ってくる」
と偽って、屋根裏へ隠れ、家の様子を除き見た。

すると嫁さまは、台所から米を出し、大きな飯釜でご飯を炊き、
握り飯を作り、味噌汁も作った。
そして、嫁さまは髪をほどくと、頭のてっぺんに大きな口が開いていて、
その頭の口に、次々に、握り飯と味噌汁を放り込む。

食べ終わると、もとの嫁さまに戻り、
一部始終を見て、やまんばであると知った男は、震え上がり、
翌朝、嫁さまに別れ話を切り出す。

嫁さまは、すんなり、
「仕方ない、土産を一つもらって出て行く」
という。
男はほっとしたが、やはりけちなので、
「うちには何にもないから、そこの桶でも持っていってくれ」
という。

嫁さまは、桶の中に虫がいるからとってほしいといって、
男をおびき寄せ、
桶の中に男を押し込み、桶をかついで、
やまんばの姿になって、山へ駆け出す…



   *

後半は省略する。

さて、また、お話とお話をする。
このお話とお話をする、というのが、醍醐味。
(わたしにとっては、これは、
詩作のプロセスと同じところを多く持っている)


この、やまんばが、
なにに反応し、なにに引き寄せられ、
男のもとに現われているのだろうと考える。

それは、男がひどくけちである、というこころの在り様が、
このやまんばを引き寄せたのだ、と思い当たる。


もし、男が、「天ぶく地ぶく」の爺さまのように、
こころの真っすぐな人であれば、
飯を食わない嫁さまなど、欲しがる訳もないし、
もし、尋ねてきても、断ったであろうし、
万一、嫁さまになったとしても、
朝から晩までよく働く嫁さまを見て、
気遣いをするだろう。

ところが、けちで欲に目がくらんでいると、
そのようには考えが動かない。
飯を食わないで働く人を、さも当たり前のように考えて、
ありがたくも思わなくなってしまう。

これは、たしかに極端な話ではあるけれど、
多かれ少なかれ、
現代を生きる人にとって、当てはまらない人はいないだろうし、
わたし自身、向き合わなくてはならないことの一つだと思う。

男がそうした思考に囚われて、
囚われたところから言動、行動を移すにしたがって、
やまんばである嫁さまは、じりじりと、
男に迫ってくる…ように見える。

もし、どこかの時点で、男がこころを入れ直すようなことがあれば、
きっと、やまんばは、立ち去ってしまうのではなかろうか、
と思える場面が見えてくる。

しかし、そこで男は、そのような選択をしない。


ところでこのけちな男に、
「どうしてけちになってしまったのか」
と、問いかけてみた。

すると、様々なことが見えてきた。
その中の一番印象に残ることの中に、

どのように育てられたか、ということが、
その男の性分を作っている、ということだった。

親が、当たり前のように、けちであり、そのようなこころでいた。
だから、それを見て、そのまま、自分がそうなった――。
そういう親のもとを離れ、今は一人暮らしをしている。

という絵姿とこたえがこだましてきたのだ。

もし、この男が子どもの頃から、いつも接していた人たちが
もっと違っていたとしたら、
こころの在り様も違っていた。

たとえば、道端でゴミが落ちていたら拾うような
親や大人に囲まれて育っていたら
その子は、拾うのが普通だと思って育つだろうし、
逆もまたありえる。
拾おうね、とも云わず、
大人が、さも当たり前のようにしている行為が、
子どもを育てている。

さらにいえば、こころで思ってることは、内面での行為である。
どんなこころでいるのか、それを、
行為として受けとめられるなら、
目に見える行為だけでなく、こころの行いも変わってくるし、
その内面の行いも、子どもに伝わる。
子どもを育てている。


そのようなことが、浮かんできた。

くわず女房のやまんばは、男の、そのようなこころに
吸い寄せられてやってきた。

しかし、このお話の結末としては、
男は助かるのだが、その助かり方は、

「こころを入れ替えたから助かった」
というものではない結末になっている。
邪を祓う植物を持つことによって、やまんばを退ける。
つまり、外界のものによって、ひとまずの難をしりぞけた、
という形になっている。

しかしまだ、こころの中には、多く残っているものがある。
それを、どうするか、というところは、
こちら側に委ねられているようにも思う。

お話を聴いて、それほど先を考えることはないかもしれないが、
語る側は、やはり色々考えてしまう。
ましてや、お話と対話し始めると、ものすごく考える。
「根本的な原因はそのままやないか…」と。

それで、ためしに最後の結末を書き変えようとしてみた。
「男が懲りて、こころを入れ替えた」というふうに書き変えようとしてみたのだが、
そうすると、お話が、変な感じがする。
このお話の生命がゆがんでしまったような気がしたのだ。

そのときに、そうか、これは、そのままがいいのか、
と、そう思った。
勝手に男を改心させてしまってはいけなかったのだろう。
その人には、その人なりの人生があって、
ある出来事と出会って、変わる人もいれば、変わらない人もいる。


委ねられている、という点が、
このお話の面白いところなのかもしれない。


あさってのお話会がたのしみだ。


この記事へのコメント