小発表のこと

一昨日は、レッスン内で、小発表を行いました。

お二人だったのですが、お二人とも、もう長く
言語造形のレッスンを続けてくださっている方。

お一人は、吉本ばななさんの「海のふた」という小説の一部分を。
もう一方は、グリムの「白雪姫」を原話のまま。
短くされず、残酷だとされる場面もそのまま残してあるテキストです。

お一方は、高らかな感情を、ずっと晴れやかなこころの在り様で語りきりました。
表情にそれが表れ、立ち方にも、力が入らず、声もとても伸びやかでした。
舞台表現として、声にするには、やや難しいテキストだと思ったのですが、
人が、ことばを声にしようとして、そこに立つとき、
その立つ人の姿、こころの姿、こころの響きが、
そのまま、こちらに伝わってくるのだ、と思いました。
そして、こころ晴れやかに在ること、晴れやかに語ること、
そのことの大切さを、考えさせられました。

晴れやかに語られることを通して、
ことばは、その肉声の中で、聴く人に、
そのことばと人を、信頼させるなにかを持つのです。
隠さないで在ること。
誠心誠意であるときに生まれる、晴れやかさ。
それは、どんなときにも、技術云々以上に、
人に与えてくれるものを持つのです。

白雪姫を語られた方は、原話のまま語って、
計ってみると34分もあったのですが、止まることなく、
淡々と語り続けました。

「長い作品なので、まだ一度も最初から最後まで通して語っていない」
と、おっしゃっていましたが、
見事に語りきりました。

長い物語の中で、3度も白雪姫を殺す妃。
しかし、そのたびに息を吹き返し、嫉妬に怒り狂う妃。
そのこころの動めきが、白雪姫と違って、なんと
人間的で、なんと共感をもてたことか!
その嫉妬に狂う妃に、なんと真実味を感じたことか!

この物語の中では、なぜか、善人より、悪人の方に
共感を覚えるのです。
その黒い情念を感じつつも、
悪い妃に、逆に、妖艶な美しささえ感じたほどです。

その妃は、最後に、暖炉の炎で焼かれた鉄の靴を履かされ、
死ぬまで踊らされる。
その残酷の極みともいえる阿鼻叫喚の中で、
聴き手の中に生じ、認識された黒い情念が焼き尽くされ、
(こどもにとっては、あるいは、
三度の毒殺に対する天上界での裁きをそこに見)
一種の禊、平定、カタルシスが生まれる。

物語が声にされるという、面白さ、不思議さ。
味わい深さ。

とても充実した時間でした。


このように、小さくても、舞台にするというステップを踏むことで
作品に向かい合う気持ちが、一歩も、二歩も、進みます。
どこか踏み込んでゆくものとなります。
作品と対話し、自分の中で、答えを見つけてゆくことになります。
そうした答えは、その人の宝であり、認識であり、叡智だと
ぼくは思っています。


なお、「白雪姫」を語ってくださった足立美代子さんとは、
10月26日(土)に、有珠で、二人で語る会をいたします。
ぼくは日本の昔話を語ります。
そちらも、ぜひお越しください。

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