昨日は、豊浦でレッスンでした。
双子の赤ちゃんのいる、温かいご夫妻と共に。
いつも、ほっとする時間をありがとう。
さて、ここでは、これからの季節にふさわしい、
グリムの「星の銀貨」に取り組んでいます。
叙事(昔話等)を語るとき、意識したいことは
お話の外形をハッキリと表すことと、
イメージを持って語ることです。
叙事とは、読んで字のごとく、
事を述べ記したものです。
情を歌い上げた叙情詩とは違います。
お話の外形を引き上げて語るには、
主に、動詞、形容詞、オノマトペを、
体で動いて稽古します。
(また外形を表す、子音を明瞭にすることです。
叙情詩の場合は逆に、内面を表す、母音に意識を向けます)
言語造形では、
ことばを身振りでもって取り組みます。
叙事は外形を、劇は役の内面を、叙情詩は情感と音韻を。
文学の別によって、身振りで取り組むポイントが変わります。
星の銀貨において、
「あわれに思った方からいただいた、一切れのパンだけになった」
という文章があれば、
しっかりと息を解き放った上で(ここが大事!)、
語るその前に(息をもらうときに)、
身振りでもって、ことばに応じます。
それは、イメージがあると、自ずからそのように、身振りが生じます。
すると、間が生きてきます。
間が生きると、ことばが生きてきます。
間が生きていないと、間が怖くなり、
間を、詰めよう詰めようとしてしまいます。
ことばで埋めようとしてしまいます。
しかし、そうではなく、
ことばの音が鳴っていない時間、
つまり、間のあいまに、
どれだけ生き生きとした身振りとイメージがこめられるか、
ということを稽古するのです。
声として語られている時間、音が鳴っている時間は、
氷山の一角です。
その根元に当たる部分を、間とするなら、
その間を、いかに、生き生きとさせるかなのです。
そのような稽古を通して、より深く、
「星の銀貨」に取り組んで見えてくることは、
とても美しいものです。
小さな女の子の、一切れのパン、そして着る物を捧げてゆくという行いは、
天の行いであり、暗くなった森で会った子どもに、
最後に「肌着だってあげられる」といって、
捧げる行いは、天上の存在へこころを捧げることのように感じます。
その様に、ことばを発する「私」が成ってゆく…
そのような取り組みとなります。
双子の赤ちゃんもいながら、
美しい時を共にしたレッスンでした。
ありがとう。
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