【遠くを観ることについて】
語る芸術において、大事な要点の一つとして、
「遠くを観る」というものがあります。
これは、実際には、遠くを観ているのではなく、
「空(くう」を観る」というような状態です。
遠くを観る、空を観る、または、ぼんやりと観る、
焦点が定まっていないように観る、と
ぼくは言ったりしています。
具体的にどういうことかというと、
地上的なものに視点が合っているのではなく、
視点が地上的なものの奥を見つめているような状態にすることです。
はじめは遠くを観るようにして、そのぼんやりした感じを見つけるように稽古します。
さて、どうして地上的なものに視点が合わないようにするのでしょうか。
「語り」のとき、語り手は、
観客に向って、日常的な意識状態で話しかけているわけではないのです。
それはご挨拶や、演説の領域です。
「語り」のときは、日常よりも、一歩、精神的なものに踏み込んだ、
非日常の意識状態です。
なんであれ、語られる作品、物語は、イメージの世界のものです。
良い意味での架空のもの、精神世界のものです。
語り手は、そのイメージの中に生き、語り手の目は、
空を観、そして、空の中に、そのイメージを描いています。
目の前にいる観客の顔や建物を観ている訳ではないのです。
そして、語り手がそうあるとき、
観客も、語り手の中に生じている、精神の世界を体験しています。
日常的ではない、イメージを観、生き、飛翔しているこころの状態を共有します。
もし、地上的なものに焦点が合っていたら、
語り手は、いわゆる素(す)に戻ってしまいます。
演劇の舞台で、勇ましく、勇壮な台詞を喋っていた役者が、突然、
気持ちの入りきらない言葉で、ぱくぱく喋ってしまったら、
観客は興ざめでしょう。
夢の中にいたのに、夢が覚めてしまったのですから。
大勢の観客を前にして、しかも客席が暗くなく、
顔が見えるような場所で語るとき、
観客の顔に視点が合っていたら、まともな、
芸術的な意識を持った状態で語ることはできないでしょう。
目は開いている。
そして、観客のことは見えている。
しっかりと、目覚めた状態で語っている。
しかし、意識の目としては、観客を観ている訳ではない。
目をつむって語るのではないのです。
ちゃんと、目は開いていて、目覚めている。
目を開いていても、イメージをしっかりと持ち、
意識を保てるほどの状態にあるときに、
芸術的な語りとなるのです。
プロの歌手が歌うとき、そのサビの部分でも、しっかりと目を開いて歌います。
そして、きょろきょろしていません。
眼球がきょろきょろしているとき、思考が定まらず、
地上的な些細なことに気持ちが囚われてしまうのです。
ですから、しっかりと空を観て、イメージを描き、
その精神の世界を歌い上げるのす。
そのような空見であるとき、
イメージが生き生きとあふれてきます。
そうした、イメージと身振りがあわさって語りになるとき、
ほんとうに生き生きとした、語りになります。
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