視線と舞台意識について
先日、語りのレッスンで、生徒さんから、視線についての質問がありました。今日は、この質問をもとに、舞台上での、語り手の視線と意識の持ち方についての、現時点でのまとめを書きたいと思います。
ちなみに、質問をしたその生徒さんは、幼稚園の保育士であり、毎日、子どもの前で素話をする方です。
「幼児の前でお話をするときは、私は人の目が気にならないんですね。幼児って、私を見ているようでも、こちらとしては、見られているという感じがしないんです。だから、お話がしやすい。でもある日、保育室に、大人のサポートの方が入って、目立たないように後ろの方で聴いてくださったことがあったんです。そうしたら、ものすごく、見られている感があったんですね。そうなると、いつもと違っていて、とてもやりにくかった。…稲尾さん、この前、toitaでの小川未明の公演では、たくさんの大人のお客さんでしたが、お客さんの視線が気になってやりにくいということはないですか。…いや、でも、もう慣れていらっしゃるのかな。」
それに対して、ぼくはこう答えました。
「確かに、幼児は、まるっと受け止めてくれて、人の目が気にならない感じがあります。たとえ、語りのあいだ目が合ったとしても、それほど、気にならない。でも、7歳以上、また、特に3年生以上になると、顕著に、そのあたりが変わりますね。目線の焦点が合うと、目をそらされます(笑)。目線が合うことで、聴いている意識が、お話から、外れちゃうようなんですね。同じように、それでこちらも、集中が途切れてしまう。小川未明の公演では、夜の公演で、客席は暗く、照明がまぶしかったので、幸い、お客さんの顔はあまり見えなかったというのがあります。でも、前の列の方は見えていました。3列目ぐらいまで見えていたかな。……目線をどう保つのかというのは、ものすごく大事なことで、語りの集中力を左右する、一番のポイントだと思います。」
そう話し、また続けました。
「舞台で語るときは、日常の意識とは違います。同じように、視線の持ち方も違うんですね。もし、日常と同じ視線で語っていたら、かなりの違和感があると思います。視線の持ち方は、いろんな言葉でいうことができると思います。ぼくは「受け取るように観る」と言っています。そして、なにを受け取るのかというと、聞き手の意識の奥にある静けさを受け取るように観、そして、そこに語るように心がけます。ここまでくると、観ることは、聴くことと重なります。聴くように観る。
そして、より、静けさを聴くことができるか、というところに入ってきます。なんとなくわかります…?言っていることが。
このことについては、いろんな人がいろんなことを言っています。
世阿弥は「離見の見」または「目を前において、心を後ろに置く」とか表現しています。目は前を向いているけれども、心は、自分の後ろの方にあって、自分を離れたところから見ているというか。
松岡享子さんは「聞き手の目の奥に流し込むように語る」とか、
久留島武彦さんは「いかに語るかということばかりを尋ねられるが、それは、自己を主張するばかりで、聞き手とつながっていない。いかにお客と「語らうか」と尋ねる人のいないことは不思議である。全てを忘れて語るとき、お客はその全体が一つの型となって、私はそこに入り語る。どこかで、ああ、あそこの誰誰が聴いていないなとか、そういうことが気になりだすと、意識が散漫になり、降壇するときには汗をびっしょりかくことになる。」また久留島さんは、いかに語らうかという点で、なにが大切かというと、よく考えたうえで、それは、最終的には「人格」だと言っていたそうです。
肝心なのは、語るとき、目線が、地上的なところに落ちないことだと思います。すこし、空を観ているようなところがあると思います。その意識の中で、聞き手の意識全体を聴き、受け止め、重なり、そこで語る・・・ということでしょうか。そうしないと、お話の語りが、単なる、スピーカーになってしまう。聞き手を受け止めるところに、主体客体のつながりがあって、そこに、身振りも生じる。そうして生まれた身振りは自然なものであるし、そうした身振りは、強い力で伝わります。」
そういったことを話しました。
なぜ、ここまで、視線が重要になってくるのかというと、ひとえに、お話を語るという芸術が、唯一、虚構を持たない、もっとも直接的な芸術であるからです。
お話以外の芸術は、なにかしら、虚構がある。演者と他者の間に直接的でないクッションが存在し、それがあるから、向こう側の世界として、想像力を働かせながら見聞きすることができる。演劇や、音楽、舞踊等も、全て、約束事、スクリーンの向こう側として、味わうための距離、虚構がある。
芸術は、本来、虚構の中で味わうものです。(その虚構を壊そうとしたのが、寺山修司の羅生門という作品であったとぼくは理解しています。)
芸術は、演者そのものと、観客の間に、なにかしら、媒介物がある。むしろ、そうでなければ、日常と、なんら変わりがない。
しかし、よくよく考えると、お話だけは、それがないのです。直接、お客に語り掛けるのが、お話。
そこに、なんの媒介もない。本を読み上げる朗読は、そこにテキストという媒介がある(演劇の構造的に考えると、劇中劇として機能するとも言えます)。落語は、想像上の相手役に話しかけることで一人劇を作る、約束(虚構)の芸術。音楽は、楽器が媒介物であり、演者は観客そのものを目を開いて直接観る必要はない。歌は、音楽そのものが媒介として機能している。
お話は、目を開いて、観客と向かい合う必要がある。目をつむってお話を語るわけにはいかない。そっぽ向いて語るわけにはいかない。
しかし、観客と、(物質的なレベルで)目の焦点があってしまうと、目に入ってしまうと、物語るという行為が崩れてしまう。だから、非常に難しい問題なのです。
見つつ、見ない、ということ。
聴くように、観る、ということ。
受け取るように、観る、ということ。
「離見の見」の必要性が、ここにあるのです。
それは、意識を保つうえで、非常に高い集中力を要する、精神作業です。
その意識を持つことによって、お話のテキストを語るときの、ことばの違和感がなくなってゆく、ということともつながっていきます。
この記事へのコメント