「『これは芸だ』と言ってきたことが実証された」
そして、今日のレッスンでは、これだ!ということが起こった。
6年ほど、長くレッスンを続けてくださっている生徒さんが、私が求めていた声を出したのだ。
みずから発するという意識でもなく、
語りかけるという意識でもなく、
受け取るように発する・・・という意識。
これは実に、
自分がどの様な意識状態であるかということであり、またそれは、自分の視線の在り方が強く関わっている事柄でもある。
その視線というのは、「全体を受け取るように観る」というものだ。
(ことばにするとあっけないものだが、実践するのは難しい。それも、お話の語りの中で行うのは至難である。)
これは、世阿弥の言う「離見の見」であり、また武道でいうところの「八方目」に相当すると思われる。八方目というのは、少林寺拳法で言われることで、局所ではなく、全体を見つめる見方である。けれども、これは他の武道でもいえることだと思う。
語り手の理想的な意識は、常に、聴き手の奥にあって、主体・客体の両方にあるような意識だ。
この意識のなかでは、ことばは、向こうからやってくるものに、自分が向かっていくような感覚がする。
(いま、ふと、以前に、自然農の川口由一さんが仰った、
「自力100%、他力100%」ということばが浮かんだ。)
能での意識の在り方は、周囲からの圧を極限まで高め、さらに、自分から外に向かう圧を同じく極限にまで高め、そのギリギリの緊迫した意識状態であるという。(さらに付け加えると、能面の目の穴は、演者の床下しか見えないように作られているらしく、周囲が見えないのだそうだ。だから、瞑想状態で舞台に立つのだという話を聞いたことがある)
話を戻そう。
レッスンでの生徒さんの声は、聴いた時、
それだ! という心持ちになった。
これは、私の語りの「芸」としてきた秘儀が、技術として、体系化できたことを確認できた瞬間であった。
生徒さんにも、感謝である。
自分が本当にわかるためには、他人様に教える必要がある、と思う。
教えることで、知が深まり、ほんとうに、わかるのだ。
教える前は、自分だけの内でとどまっていて、芸術表現としては出来たとしても、
体系的にことばに落とし込むことができないから、感覚にとどまってしまう。
教える相手がいるということ、これは、有難いことだ。
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