これは誉め言葉である

「これは誉め言葉である」

公演「小さい針の音」の感想を詳しく話してくださった、レッスンの生徒さんがあった。そこで、驚くべきことを聞いた。

その生徒さんは幼児教育の現場で保育をされる方だが、離れて暮らしている大学生の娘さんと電話で話していたら、その公演の話になって、「どんな話だったの」と訊かれたから、話してあげたのだという。

そうしたら、自分でも驚くほど、事細かに細部に渡って思い出しながら話してあげることができたという。それを聞いた娘さんが「よくそんなに覚えているね。子ども並みだね」と言ったという。

これは、誉め言葉である。

幼児教育の現場に立つ生徒さん曰く、「幼児は3回お話を聞いたら、一言一句覚えてしまいます」という。その幼児並みに、ものすごく事細かに覚えていたというから、すごい。

「食い入るように聞いていました」と生徒さんは仰っていたが、それほどまでに、大人がお話を覚えられるものだろうか。

思い当るのは、ごく最近、ぼく自身の語りが変わったということと、少なからず関係しているように思えたことだ。
一音一音の明瞭さが、変わったのだ。

少し前までは、ことばの音やイメージを、受け取ること、聴き取ることに、心血を注いでいた。もちろん、これは大切なプロセスだけれども、聴き取ることに専念すると、少なからず、声の「実音における明瞭さ」が不足してしまうようだ。
そして、話者にかかる疲労の度合いも強くなる。

今まで続けていた、空間から「聴き取ること」、という作業。
その、まるで、扉を開けてゆくような作業の果てに、ある、地平がひらかれた。
「永遠まで」の公演のあとに、それは訪れた。
「永遠まで」の公演中は、扉をどんどんあけて、奥へ奥へと進んでいた。
深くへ、深くへ、降りていた。

公演の数日後に、
その底が抜けたように感じた。

地平が開かれたとき、ぼくは、微笑むようになった。
語りの間のみならず、日常の合間も。

そのようなところに立つようになった。

そうして迎えた、「小さい針の音」だった。
その結果、生徒さんが、お話を事細かに覚えていたのではないだろうか、という想いにつながった。





ちなみに、生徒さんは、「小さい針の音」を、今回と、一年前に一回の、合計二回だけしか聞いていない。
「幼児並み」という誉めことばが、より鮮烈に感じる。
R・シュタイナーは、「幼児は全身が聴覚器官である」というようなことを語っている。
幼児の敏感さで、ことばを捉えたのかもしれない。
そのように味わえる、磨かれたことばを、届けていかねばならない。

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