芸術の才能とは何ですか



「芸術の才能とは何ですか」


いつもウォーキングしている森の道に、大量のゴミが落ちている。
通るたびにこころを痛めるので、ゴミ拾いをした。とりあえず、ひとまず今日は、「缶ゴミ」を拾おうと思って、レジ袋を片手にさあ出発。
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落ちてるわ、落ちてるわ。2分で、あっという間に、20缶は集まった。
すると、向こうから、犬の散歩をしている人が通りかかった。普段は見かけない人だ。その人が話しかけてくれた。
「どうしてこの道には、こんなにゴミが落ちているんでしょうね。私は実家があるから、時々ここに来るのですが、この道はゴミが多い。私も、犬の散歩をしてなかったら、ゴミを拾いたい位なんですけどね。」
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ゴミを拾う気持ちのある人と出会えて、こういう声をかけてもらえるのは嬉しい。
それにしても、なぜ、こんなに美しい森の道にゴミを捨てるのだろうか。そう考えていると「清浄な場所ほど、周りに悪しきものが集まりやすい」という話を思い出した。
聞いた話であるが、皇居は極めて清浄で、その聖域を守るために結界が張られているが、都会のど真ん中に、急にそのような清浄な場所があると、吸い寄せられるように、悪しきものも結界の外に集まりやすい。だから、皇居の周りは、気を付けた方がよい、という話を、むかし聞いたことがある。
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美しい森の道も、美しく清浄であるがゆえに、ゴミを捨てる人が出てくるのかもしれない、と考える。それと同時に、そのたびにゴミを拾うから、常に掃除が行き届き、新た新たに、気が新鮮になるようにも思う。
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500m程の道で60缶ほど拾った。ゴミ袋からあふれ出たので、空いた手でも缶を持った。
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「言語造形(語り)における才能とは何ですか」
と、ずっと前に、師匠に問うたことがあった。
そのとき師匠は、しばらく考えてからこう答えた。
「自分を信じる力です」
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言語造形を深めた今、このことばには深い意味があることを感じる。
あらゆる芸術で、「素語り」だけは、虚構がない。つまり、自分と距離がない。(絵も音楽も造形も距離がある。歌や演劇も、音と虚構が媒介をする。)裸身の私で向かい合わねばならない。だから、他の芸術に比べ、どうしても、その人の、人間性が強く関わることになる。
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久留島武彦先生は、「語りにおいて最も大切なことは?」と訊かれたとき、よく考えたうえで「人格です」と答えたという。
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「子どもを前にして語る人は、そのたびに、聖められなくてはならない」「ことばとは、自分の心を、ひとの心にうつすこと」「子どもに魂を入れるのは周囲の大人である」そう言った久留島先生は、どこまでも、ことばの芸術の道が、修身の道だった。そのように立つことが、芸術であり教育であることだと思う。それを分けてはならない。
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「自分を信じる力」は、そういった分離のないことだと、私は、いま、思い当たっている。修身の道が、芸術を支えている。同時に、芸術が自らの修身を支える。誠心で、芸術に臨んでいるのか、ということだ。
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私は自分が恥ずかしい。自分のこころは、自分がよく知っている。
小さな子どものように、もっと素直で、まっすぐでありたいと思う。
芸術を、本当の芸術たらしめんために、私は、もっと精進せねばならない。ゴミ一つ拾うのに、トイレ掃除をするのに、そのこころがけが、芸術の根っこを支えるのだから。

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