いいことしてきなすった

『いいことしてきなすった』

ゴミ拾いも、いよいよ最終章。
最後に拾うのは「燃えるゴミ」である。
2回目のゴミ拾いからはアミクンも一緒に手伝ってくれる。心強い相棒だ。
30ℓのゴミ袋を3つ持って、さあ出発。
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お弁当の容器、パンやおにぎりの袋、お菓子袋、ドリンク容器、ティッシュ、タバコの吸い殻と箱、長靴…。
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「きれいにしてくれてありがとうね。」
と、ウォーキング中のおばさんが声をかけてくださった。
その後には、よく歩いている80代位のおじいさんにも「マメにご苦労様です」と、声をかけてもらった。足を引きずりながらでも、ほんとうに、よく歩かれていて、挨拶を交わすその方の声にはハリがある。
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「投げる人は決まっとりますもんね」と、おじいさん。
『なげる』というのは、北海道弁で「すてる」という意味だ。
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「同じ人が投げとるようです。落ちているのが同じ缶ですもん」
よく見ているなあ、ちゃんと見ていらっしゃるんだなあ、と思った。
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そう、おそらく投げ捨てている人は、決まった同じ人。一人だけかもしれない。
たった一人でも、冬中捨てたら、500mの森の道がゴミだらけになるのだ。(これもまた、「継続は力なり」である)
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同じ銘柄のタバコの吸い殻は、ご丁寧に、2mも間隔を空けずに、ずらーっと「投げて」ある。いつも同じところに捨てるのではなく、500m、ずらーっとラインを引いてあるのだ。
冬の間は降雪に埋もれて見えなくなるのに、一体どうやって500mも間隔を空けずに、こんなに上手に捨てたのだろうと、感心するほどだ。(今日はここまで捨てたぞと、目印の棒を立てたのだろうか?)
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ゴミの詮索や、色々な思考がよぎってゆく。
そんな中、改めて、自分がゴミを拾うことの意味を問うきっかけになった。
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ゴミを拾っていると、清々しい気持ちもある半面、様々な思考の他、これがなんのためになるのだろう、という思いに駆られるのだ。捨てられたゴミをそのままにしておくのは心が痛む。けれども、あまりに広範囲で大量だ。要らぬ詮索や、イライラが募ると、精神的には拾い損である。
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これが一体なんになるのか…。
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気持ちが低いところにあると、あらぬところに心が落ちてゆく。でも、遠く遠く、先を見据えれば、教育的なことであるのだと、思えた。
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ごみが散乱していたら、心が乱れる。心が乱れれば、治安が悪くなり、町も子どもたちも安全・健全ではなくなる。
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捨てる人はおそらく一人。そのたった一人なのに、有珠は悪い人がいるとか、良くないイメージがついてしまう。
ニュースでも報じられるのは悪いことが多い。でも、事件はほんの一人ずつ。そのたった一人であっても、ニュースで流れれば、道行く人や顔見知りでない人、みんながひょっとして悪い人なのではないかと思えてくる。悪い面を探す癖がついてしまう。そんな風になったら、世界を、世間を、一生懸命に生きて仕事をしている人を、敬えなくなってくる。
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意味のない、疑いの目で見てしまう。それは、つまり、世界が低くなってしまうことだ。
それは教育的ではない。特に、子どもにとっては。
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ゴミを拾いながら始まった自問自答の着地点は、「遠く遠くを見据えること」。その遠くにあるものは、自分にとっては、教育である、ということが了解された一日だった。
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家に帰ると、妻が「いいことしてきなすった」、と笑顔で迎えてくれた。
これはもちろん、毎年語る「笠地蔵」の婆さまが、笠をかぶせてきた爺さまに言うセリフである。




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