4年生のアミくんは、ここ最近はめっきり読書家になった。
数日前にはヴィクトル・ユーゴ―の「嗚呼、無情」(レミゼラブル)を一日で読み終えた。
少し前の、お兄ちゃんのような具合である。
「お父さんの書斎は本でいっぱいだね。」
そう、書斎は、部屋の隅。本の壁に囲まれ、小さな机がやっと入る一畳程のスペース。
でも、その古道具屋のような、隠れ家的空間が気に入ってもいる。
「うん、そう。お父さんが最近読んでいる本は…この本なんだけど…」
そういって、吉田絃二郎の「文章の作り方と味ひ方」というかなり年季の入った本を手渡した。この本は、一言一句、気の抜けない味わい深いことばで綴られており、これはと思って、購入を決めた本だ。しかし、どこを見ても買えないから、少し前に、Backwoodさんに取り寄せをお願いした本である。
「ずいぶん古い本だね…。ここ穴空いているよ」
70年以上前の本だから、傷みも激しいが、購入者のサインが美しく、また誠実で、その字からも、読者から大事にされたのだろうなあというのが想像できる。
ぱらぱらとめくった後に、アミくんは最初の方を少し読み始めた。
すると…
「最初の4行読んだら、もう詩が浮かんだ」
と言って、詩を書き始めた。
それも、かなり、長い詩で、30分ぐらい書いていた。
……
文章の内容というよりも、そのことばの、香りのようなもの。
ことばの奥に潜んでいる、書き手のこころの気配が、細やかな部分に現れる。読めない漢字もある中で、アミくんはその雰囲気を感じ取っていたのだと思う。
その最初の文章はこんなことが書かれている。
*
一 童謡を作る心
文を作る心は、童謡を作る心でなければなりません。
朗らかな心、屈託のない心、偽らぬ心の底から、自然に湧出てくる泉のさゝやきは、そのまゝ童謡なのです。
春の微風が菱の葉を撫でると、そこに春のよろこびがわなゝきます。
秋の微風が葦の葉をそよがせば、そこに秋のわびしさが漂ひます。
微風のごとく自然に、葦の葉のごとく自然に、よろこび、かなしみ、うれしさ、わびしさを音楽的にうたふこそ、童謡なのです。
*
これを読んで、アミくんは、「ささやき」という詩を書いた。
9歳前後というのは、まだ天上の世界とつながりつつ、文字言語の習得が進み、自身が感じる世界をそのまま言葉にしてゆくだけのこころが動きやすい時期だと思う。
「神」ということばも、素直に出てくるのがこの時期である。
折に触れて、様々なことをこころに感じ、詩にうたうこと。
「歌」、その語源は、「訴ふ」から来ているという。
古においては、神に訴えることばが、歌(詩歌)だった。
神に訴えることばは、日常のことばでは駄目だった。
だから、日常ではないことば、その国に合った韻律をもつことばが自然と選ばれた。
そうした歌は、音楽的で、踊りを生じさせ、呪術性をもつ呪言であるという。
*
「詩は、宗教的なささやき」
と、誰かが書いていたことを思い出した。
時代が下り、現代詩になったとき、詩は「訴ふ」ものではなくなってきたが、宗教的な深みを持ったささやきであるというのは、ぼくも詩の書き手として腑に落ちる。そうした「ささやき」に耳を澄ますこと、文をそのように読んでいけることが、こころに深く入ってくるものだと感じる。吉田絃二郎氏の文章は、そうした味わい深さで満ちている。
こころの中に在る神に、訴えてくるものがあると感じる。
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